Q子さん

 Q子は、小さいときから華奢で、おとなしい子どもだった。多少過保護な養母にしっかりと守られて育てられたから、いつも母親と一緒でなければどこへも行けない子どもだった。毎夏の里親会がやる親子での宿泊研修には必ず母親と共に参加していたが、協会の子どもだけで行くキャンプには参加できなかった。
 2才で引き取られ、順調に小学校を終えた。中学に入って、1年生はどうにか無事に過ごした。運動神経もよく、ずっとスイミングに休まず通っていたし、音楽が好きだった。歌も上手だし、音感が抜群によいのだと、母親は嬉しそうであった。その中学校には、器楽合奏クラブがあって、いつも全国大会に出場するほどのレベルであった。友人と共にQ子は、当然にその器楽合奏クラブに入ったのだが、練習が厳しかった。コンクールを控えて、練習は休日にも及ぶ。音感がよく、運動神経も良いところを見込まれて、彼女は大太鼓を受け持たされていた。女の子にとって、太鼓は少し格好悪かったが、他に適任者がいないと言われて頑張っていたようだ。
 しかし、母親にいつも守られていて、自分で考え、判断することをあまり訓練されてこなかった彼女にとって、厳しいクラブの練習は、単純に音楽が得意というだけではついていけるほど生易しいものではなかったようだ。口うるさい母親の小言は慣れてしまえば聞き流していてもすんだが、教師やとりわけ伝統を守ろうとする先輩達からの特訓は、厳しく叱責された経験のないQ子にとっては初めての辛い体験になった。クラブに行くのが苦痛になり、学校を休んだ。大事なパートを受け持っているのだから、教師も友人もその父兄からも練習に出てきてくれるように懇願されるが、Q子は聞き入れなかった。思春期に突入し、自我の形成過程でのこの挫折は、彼女を頑固にし、内にこもってしまう結果になった。
 今まで、親の思い通りになっていた娘がろくに口も聞かなくなり、部屋に立てこもり、学校に行かないばかりか、部屋からも出てこなくなって、母親は混乱した。たまに学校に出かけても、帰ってくると自室に閉じこもり、持たせた弁当箱を返さないので、気がつくと7つも8つもカビを生えさせてしまう。掃除も洗濯もさせない。夜中に出てきて台所で好きなものを作るのはいいのだが、汚し放題である。母親ばかりでなく父親も怒り始めると、家具で内側からバリケードを築き、トイレにも下りてこなくなった。それでもどうかしてプイと出かけるので、部屋に入ってみると、まるでゴミの山である。下着にしろ布団にしろ、汚れると母親が買い置きしている新しいのを引っ張りだして、まったくの使い捨て状態であったという。
 母親は、児童相談所や、もといた施設や協会に相談するが、それで子どもがどうにかなるわけではないので、どこに出かけても、まるで壊れた蓄音機のように、手の付けられない娘の行状を訴え続けるだけで、何をアドバイスしても、それをよく聞き、試行錯誤してみるだけのゆとりが当時の母親にはなかった。だから、相談できそうな人や、手当たりしだいに相談機関を駆け回るが、どことも信頼関係が作れないでいた。
 それでも学校や児童相談所の指導と、親や本人の頑張りで、卒業間際には少々落ち着き、専門学校に進学したいと言うようになった。専門学校も真面目に通っていた1学期は成績も良かったので、追試さえ受けてくれれば進級できるというのに、2年になる前に中退してしまった。外に出て、当然に交友関係が広まったことで、今度は家に寄りつかなくなっていった。夜になると出かける。金遣いが荒くなる。小遣いを渡さないと、家の金を持ち出す。母親が貯金通帳からすべての財産をいつも肌身離さず持ち歩くようになったら、記念硬貨や有価証券を持ち出して処分してしまう。叱れば、親の言葉の5倍くらい激しい悪態がかえってくるし、手をかければ刃物を持ち出しての喧嘩になった。おとなしかった子どもの豹変に、親の気力がついていかない。友人のアパートで生活すると言って聞かず、唯一連絡のための携帯電話も母親だと分かると切られてしまうことが多くなった。でも、何かあるとQ子からの連絡もあり、また部屋を掃除すると、母親の身体を気遣うような手紙や、父親へのバレンタインデイのチョコレートがさりげなくおかれてあったりした。母親も少し落ち着き、娘の電話の送信先から付き合っている男性と連絡をとってみたり、私と補導関係の相談コーナーに出かけたり、Q子との関わりを丁寧にメモを取ったりしながら、相談してくれるようになった。そんな時に、友人と万引き事件で捕まり、鑑別所に送られてしまった。保護観察処分となって家に帰ってきたものの、おとなしくしていたのはしばらくで、保護司のところへもだんだんに顔を出さなくなり、代わりに母親がせっせと相談に出かけた。でも、どうやらその頃が潮時になったようで、徐々に彼女の生活も収まり、気がつけば真面目な男性との交際が実って、一緒に暮らし始めていた。なかなかの美人になり、社交的なところもあって、2人して助け合いながら慎ましい生活を始めている。母親に勧められて、協会の飴売りを2年手伝ってくれた。最初の年はあんなに喧嘩ばかりしていた母親に付き添われてのボランティアだった。2年目も母親が連れてきたが、飴売りは一人で頑張った。婚姻届も出したというので、「どう?2人の給料でやりくりしているの?」と聞くと、「ええ、何とか頑張って・・・」と答えていた。「まだお母さんと喧嘩している?」と聞いたら、「いいえ、離れてみれば喧嘩をする種もないし、今では何でも相談しています」と言って、はにかんで見せた。
 子どもが成長し、独り立ちするまでの道のりは大変だ。小さいときから割合、親の手中におさまっていた子どもほど、そこからの独立戦争は過激なものにならざるを得ない。どの子も、その荒れている時には、「こんなことをしていてはいけない」と考えているようだ。しかし、親の庇護から飛び出した世界はとても刺激的で、分かっていたって、なかなか抜け出せるものではない。そんな時に、いい男性やいい女性に出会えることで、立ち直るきっかけになることは多い。真剣に生きている親の姿が、そんな相手を見極める時のモデルになっているように思える。要は自分が育てた子どもの力を信じて、子どもの揺れに親も一緒に揺れながら付き合ってやることが必要なのではないかと、このドラマチックな親子の戦いを見ていていつも思う。

(あたらしいふれあい 99年7月号より)